『漱石研究』 目次に戻る :第一章 はじめに:歴史的遺産 :

日本の明治時代

前へ 次へ

 いかなる人間も孤島のようには生きられないという言葉が真理だとするなら、いかなる国も永遠に孤島のままとどまってはいられないという言葉も、等しく真理を語っている。一八五三年にペリー提督が日本の沿岸沖に到着した事実は、われわれにこの真理を思い出させる。しかし、この古くからの真理に基づく歴史的出来事を、後になって第三者としての気楽な立場からながめるのと、その時代を実際に生きるのとでは雲泥の差がある。真実を身をもって学ぶこと、あるいはやむなく学ばせられることは、それが個人的な体験であれ、国家などの集合的な体験であれ、つねに苦しみを伴うものだ。このことは、たとえそれによって最終的には、フランスの哲学者ベルクソンの言うところの「生命の跳躍」が得られることが約束されていようと、同じことだ。十七世紀初頭から、徳川による厳格な封建政治のもとである意味で平和な時代を謳歌してきた日本が、明治時代への移行の直前に経験したのは、まさに、このような状況だった。徳川の時代にすでに、次第に息切れし始めた巨大な封建体制が終わりを迎えようとしていることを感じている人間がいた。黒船の艦隊で脅しをかけながら最後通牒を突きつけるペリーに屈して、体制がみじめな降伏を受け入れるのを目撃した彼らにとっては、この時期は自己憐憫のときでも、絶望のときでもなかった。それどころか、まさに行動のときだった。行動を開始した彼らは二つの派に分かれた。伝統的な孤立主義を守ろうとする一派と、開国を唱える一派だ。開国しなければ攻撃を受けて滅ぼされるかもしれないというジレンマに直面した彼らは、それぞれに自己防衛本能を働かせ、結局は政治的意見の相違を越えて、互いに手を握ることの必要性を認めた。
 一八六八年の明治維新が、大規模な政治改革としてはまれにみるほど、大した流血もなく進められたのは、上のような事情からだった。まだ若き明治天皇を中心に日本は一丸となった。明治天皇はこののち五十年の在位のあいだに、すぐれた展望を持ち、勇気ある決断力を発揮して、近代日本の誕生に大きな役割を果たした。偉大なる試みの第一歩として、明治天皇は政治の中心を、千年以上の歴史を持つ日本の都、古い日本の象徴とも言うべき京都から、それまで将軍の膝元だった江戸へ移し、名前を東京と変えた。次に、新生日本の中心となる政策を示した「五箇条の御誓文」を発表した。これは封建体制を廃し、国民に職業・信仰・信念の選択の自由を与え、国は国際社会の一員として開国の政策をとり、他国との自由な通商を確立するといった内容のものだった。外国からの圧力と天皇による指揮のもと、日本は西洋諸国を政治・社会・文化面での手本とし、近代国家として自国を再編成することを宣言した。そして、長い歴史の中で最も劇的といえる変化の時代へ乗り出したのだ。このような事情から、明治日本にとって、近代化とは西洋化を意味し、またその反対に、西洋化即近代化でもあった。
 事実、日本の近代化はあらゆる分野、あらゆるレベルでの大規模な再編成だった。政治の分野では、中央政府は藩閥政治の性格を強く残しながらも、かつて完全な封建政治に支配されていたこの国の支配権をすばやく握った。当然ながら、新しい制度に不満を持つ旧藩士たちによる局地的な反乱が続き、それはついに西南戦争(一八七七年)へと発展した。しかし、彼らの試みは、新政府の近代化された兵力の前になすすべもなく打ち砕かれた。新政府の軍隊の構成員の多くは職業軍人ではなく、一般からの徴集兵だった。この戦いの勝利によって、新政府は自らの大義に新たなる自信をつけ、国家の一致団結に向けていっそうの努力を続けた。いまや政治的覇権が自分たちの手にあることは明かだった。新政府はいよいよその本来の約束を実現せんと、総選挙に向けての準備を開始した。民主的な政府を望む国民の声に応えるべく、板垣退助の自由党や大隈重信の立憲改進党といった政党が組織された。そして、一八九〇年の帝国議会発足とともに、明治日本はついに立憲君主国として産声をあげた。その後、極東最初の立憲君主国、日本は、一八九四年から九五年にかけての戦争で中国を破り、さらに一九〇四年から五年にかけての戦争でロシアを破り、それによって、東洋の大国としての地位を世界に知らしめた。この二つの戦争での勝利は、近代化の成果たる三つの力による最初の共同事業とも呼ぶべきものだった。つまり、官僚制と軍国主義、そして資本主義だ。これらは次第に中道をはずれて極端へと走り、日本の帝国主義へと発展していく運命にあった。
 社会文化面では、「啓蒙」のスローガンのもとに行われたこの近代化・西洋化の動きが、一八八三年から九一年のあいだにピークに達した。西洋的なものなら何でもまねをするという風潮が一般に広まったのは、よく言われる日本人の「模倣の才」にその原因の一部があったことは確かだ。しかし、原因はそれだけではなかった。この風潮は政府の指導者の意図的な計画の結果でもあった。政府は前時代に西洋からの圧力に負けて締結した、治外法権などの不平等な条件を盛り込んだ屈辱的条約を改正するという、早急なる政治的使命を帯びていた。諸外国はその改正に反対する大きな理由として、日本古来の生活様式、しきたりなどが外国人には受け入れがたいものであることをあげていた。そのため、伊藤、井上、森らの政府指導者は、すでに開始していた教育・運輸・郵便・電信などの分野での近代化に加えて、日本人の生活、少なくとも指導者層の生活を早急に西洋化する必要性を強く感じていた。
 このような欧化政策を受けて、鹿鳴館時代と呼ばれる時代がやってきた。鹿鳴館とは、政府の指導者たちが西洋音楽のコンサートを開いたり、文化交流の集まりや社交パーティーを開いたり、仮面舞踏会を催した建物の名だ。西洋的な社交生活の導入は徹底的に行われ、政府指導者の妻や娘は完全にそれにとけ込み、自信を持って諸外国の外交官らを招き、欧化政策の成果を披露するに至った。欧化政策を指示したのは指導者層だけではなかった。一般の民衆もこの欧化の動向をしっかり自分たちのものにしていった。中には、アルファベットを日本語に取り入れようとしたり、西洋人との結婚を奨励したり、日本語にかえて英語を国語とするなどといった、涙ぐましい努力もあった。そんなさなか、新憲法の公布の日に文部大臣森有礼が暗殺されたことは、中国とロシアとの戦争にすばやく勝利を納めたことによって大きな勢いを得た日本の国家主義の波の強さを象徴するものだった。その後、この事件がきっかけとなり、より成熟した形の世界主義(コスモポリタニズム)が日本国内に台頭した。これは、極端な欧化主義も極端な国家主義も、ともに日本がとるべき道ではなく、日本は独自の特性を生かすことによって、国際社会において可能な限り多くの分野で自らの役割を果たすべきであるとする考え方だった。

第一章 はじめに:歴史的遺産 に戻る