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文学界における新しい声

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 文学というものはその本質からして、政治のように外からの圧力で変化させられたり、上から押しつけられて変化させられりするものではない。文学の進歩は、伝統と個人の才能との自発的かつ意識的な協力によってのみ可能だ。明治の文学、とくに純文学が、当時の政治的・社会的大変革に先んじることなく、数十年遅れて変革を遂げたのは、このような理由からだった。とは言え、古いものがすべて新しいものにとって替わられるべき運命にあったこの時代には、文学においてと言えども真空状態の存在は許されなかった。その意味では、明治の文学を、当時社会全体を呑み込んでいた近代化・西洋化の波、一言で言うなら全社会的啓蒙の波と切り離すことなく、その一部としてとらえることもできなくはない。そういった観点から見ると、明治の文学は特徴的な二つの時代を経て発展したととらえることができる。その二つの時代とは、西洋文学の日本化の時代と、日本文学の西洋化の時代だ。西洋で数世紀かかった変化を、半世紀にも満たない期間でやり遂げようという全国民的欧化政策の結果として、明治の文学は戦いと敗走を繰り返す混乱した戦場のようになった。つまり、啓蒙主義、古典主義、浪漫主義、現実主義、自然主義、新浪漫主義、新理想主義といった、色とりどりの旗印とスローガンに埋め尽くされた無秩序状態におちいった。それらの主義主張はたがいに重なり合いながらこの国を侵略しようとしたため、そのうちのいずれも土壌深く根を下ろすことはなかった。
 明治時代の前半は、一般に「翻訳と翻案の時代」と呼ばれている。西洋文学の日本化が盛んに行われた時代だ。中村正直によるサミュエル・スマイルの"Self-Help"、ミルの "On Liberty" の翻訳、中江兆民によるルソーの「民約論」の翻訳、福沢諭吉による一般民衆向けの小冊子の発行といった動きに乗って、啓蒙主義がジャーナリズムと文学とを近づけた。ディズレーリ、リットン、スコット、ユーゴーといった作家の作品の翻訳、あるいはそれらの日本風の翻案は百近くにのぼった。当然ながら、とくに目立って流行したジャンルは政治小説だった。このことは、当時、政治に対する関心が全国民的に広がっていたことをよく表している。しかし、この時代は真に芸術的と呼べる作品はなく、いわば転換期だった。つまり、真の純文学の確立のための一つの段階だった。
 次に日本文学の西洋化の時代がやってきた。日本文学の西洋化のためには、まず第一に、まだ名残の残っていた江戸文学とはまったく異なる新しい文学が必要だった。江戸文学は純文学というより単なる娯楽の一部で、時代の要求を満足させることができなくなっていた。江戸文学の主流の一つは、色街を描いた西鶴の都会風なあか抜けた作品の焼き直しにすぎず、もう一方の主流も、中国の影響を強く受けた馬琴の伝奇物語の焼き直しにすぎなかった。このような江戸文学の名残では、新しい時代の読者の要求はとても満たせなかった。時代はすでに、二十代の若き新世代の作家の手に移っていた。彼らは題材、文体はもとより、人生と文学そのものに対する態度からして、前時代の伝統から完全に脱却していた。この時代は、新しいシステムのもとで教育を受け、情熱を持って文学に取り組む若者たちーーヨーロッパで言うならエリザベス朝の大学知識人に相当する若者たちーーの時代だった。
 詩、劇作、小説など、あらゆる分野で新しい声があがった。しかし、変革の主流は小説だった。というのも、独特な慣習と伝統に守られた詩、劇作の分野は変化の時代に達するにはまだ長い時間を要したからだ。小説の分野における新しい息吹が感じられた最初の作品は、坪内逍遥の「小説神髄」と「当世書生気質」の二つの作品だった。この二つの作品はともに一八八五年に発表された。それまで、小説を書くのは社会的にも文化的にも程度の低い人間のすることとされていたので、大学出の逍遥が小説を書いたことは実に衝撃的な出来事だった。それにより逍遥は、理論だけでなく身を持って、明治の小説の道筋をリアリズムの方向へと導いた。西洋のリアリズムにもとづいた、日本で最初の学術論文とも言うべき「小説神髄」において、逍遥は『小説の主脳は人情なり、世態風俗これにつぐ』と論じた。さらに、小説は江戸文学に共通して見られる勧善懲悪の倫理観の押し売りや、近代の政治小説に見られる実用主義的プロパガンダなど、いかなる形の教訓主義にもとらわれてはならないとも言っている。次に「当世書生気質」において、逍遥は自らの経験をもとにして、一八八二年前後の大学生活の様子をおもしろおかしく、いきいきと描いた。
 「当世書生気質」は明らかに、「小説神髄」で論じた自らの文学論を具体化するために書かれたものだったが、実際はあまり成功しなかった。筋の構成面では、大詰めまでの展開が甘かった。社会現象に関する一連のコメントの中には、かなり興味深い点もあったが、自ら反対を唱えていた教訓主義の傾向を脱しきれなかった。さらに、その文体はまだ古めかしさを残していて、新しい表現形式と呼ぶことはできなかった。一方、逍遥の弟子の二葉亭四迷(本名、長谷川辰之助)の作品はどれも師をしのぐものだった。一八八七年に発表された「浮雲」でのテーマの現実主義的扱い方は、逍遥のそれよりはるかに徹底していた。二葉亭はこの作品で、大胆にも言文一致体を採用した。このような成功の影には、二葉亭がロシア語を学び、ロシアの現実主義的近代文学の影響を強く受けたていたという背景がある。
 この近代的リアリズムの産声は産声だけには終わらず、各方面へその波を波及させていった。その中で最初に行動を起こしたのは二葉亭の幼少時の友人、山田美妙だった。彼は二十歳の若さで、新しい日本の指導的文学者としての地位を確立した。それはとくに、彼の徹底した言文一致の文体のおかげだった。それとほとんど時を同じくして、尾崎紅葉を中心とした青年たちの同人グループ、硯友社が世評を得るようになった。紅葉の指揮のもと、硯友社は一八八五年から一九〇三年のあいだ、事実上日本の文学界を支配した。同グループは当時流行っていた政治小説に背を向け、逍遥や二葉亭による西洋文学の手法の導入に反対し、山田美妙に対抗して、前時代の西鶴の伝統の中に近代的文学を誕生させようとした。このように、硯友社は文学の欧化を目指した逍遥とその一派とは反対に、浪漫主義的美意識を反映した伝統的文学グループへと成長していった。ここで、どんなに駆け足で明治文学を通り抜けようとしても、どうしても避けて通ることのできない人物がいる。それは森鴎外だ。彼は逍遥、二葉亭らのリアリズム、尾崎の硯友社と並び、明治の近代文学の先駆者の一人だ。ドイツで教育を受け、軍医となった後、鴎外は翻訳、文芸評論の分野に興味を持ち、一八九〇年に処女作「舞姫」を発表した。ドイツに滞在中、ゲーテ、シラー、ハルトマンらの作品にふれ、理想主義の洗礼を受けた。いわば、ヨーロッパ文学を直接に肌に感じた最初の日本人であった鴎外は、明治文学の近代化に大きな貢献をした。鴎外にはこの点も含め、いくつか漱石と共通点があり、のちによく漱石と並び評されるようになった。
 十年以上にわたり文学界を牛耳ってきた硯友社同人も、紅葉が三十七歳という若さで世を去ると同時に、一九〇三年に終わりを告げた。紅葉の死は硯友社的な小説を書くことができないでいた作家たち、あるいは硯友社の浪漫主義的な干渉主義や、倫理的未熟さ、現実逃避的な美意識などに批判的で、そのような小説を書かないでいた作家たちによる新しい時代の到来を招いた。この新しい時代の到来を喜んだのは、島崎藤村、徳田秋声、国木田独歩、田山花袋、少し遅れて青山青果、正宗白鳥といった面々だった。彼らはみな、ゾラ、フローベール、モーパッサンなどのフランスの自由主義文学、あるいはツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイといったロシアの現実主義の文学の影響を強く受けていた。これらの作家は個々の作風の違いはあるにしても、全体としてある一つの文学の波を形造っている。その代表的作品が、藤村の「破戒」(一九〇六年)と花袋の「蒲団」(一九〇七年)だ。この二つの作品は、その少し前に海外から帰国し、「早稲田文学」の主幹となった北村透谷の唱えた自然主義的精神を実践した作品として歓迎された。二十世紀の最初の十年間にあたるこの時期は文学史上、「自然主義文学運動の全盛期」と呼ばれる。
 漱石が「おそらくは明治文学の最高の傑作」と賛辞を惜しまない藤村の「破戒」は、厳格な社会階層制度に大胆な挑戦を試みるものだった。その中で、高等教育を受けた若き主人公は、自分自身に正直であるために、部落の出であることを秘密にしておくようにという父親の言いつけを破り、最後には自由の象徴であるアメリカへ旅立つ。一方、花袋の「蒲団」は自叙伝的告白小説で、主人公の中年の文学者が、女の弟子に対する情欲に悩み、心を決められぬまま、結局は女弟子の残したふとんで我慢するといった筋だった。あまりの率直さに、この作品は当時、「破廉恥な作品」との悪評を受けた。しかし、その一方で、文学と実生活とを結び付けて考えようとする多くの若き文学者に大きな衝撃を与えずにおかなかった。「破戒」と「蒲団」のあいだの共通点を一つあげるとするなら、それは自分を発見すること、あるいは少なくとも自分に正直であることの必要性を強く呼びかけている点だろう。しかしまた、この二つの作品の相違点もここにある。つまり、自己発見と自分に正直であることの違いだ。この違いはまた、藤村と花袋の人間性の違いでもあった。
 藤村と花袋は明治文学の自然主義運動の両極端を代表している。明治の自然主義の作品が概して平凡な理由は、当時の若き文学者たちが、自ら望んでか、あるいは安易さのためにか、藤村よりもむしろ花袋に追従したところにある。芸術的観点から見ると、確かに花袋を真似る方が安易な道ではあったが、そのおかげで、小説とは言いがたい「告白小説」が日本の伝統的文学の中で不滅の地位を獲得することとなった。この意味で、花袋の「蒲団」は日本の自然主義の根本的弱点をさらけだしていると言える。個人的なささいな物事を詳細にわたって書き連ねるあまり、この小説は社会的な大きな視野に欠いている。また、あまりに感情的で、感傷趣味に走りすぎているため、物事の無情な成り行きを無視している。そして、何よりも、ヨーロッパの自然主義を文学の近代化の原動力とならしめた、哲学的・科学的基盤ともいうべき、知的基礎に欠いていた。日本の自然主義者の中に、ゾラやフローベール、モーパッサンらに匹敵する文学者がいないのは、このような事情からだ。したがって、日本の自然主義運動からはほとんど傑作は生まれなかった。
 おそらくこういった経過はすべて、文学者が自国に固有の伝統を捨て、新天地を大急ぎで駆け回り、新しいものをろくに消化もせずにエネルギーにせざるを得なかったこの時代には、避けることのできないものだったのだろう。ともかく、明治の自然主義は深い知的な裏付けのない、一種の文学的ファッションに終わった。とはいえ、自然主義運動の結果は否定的なものばかりだったわけではない。肯定的な面もあった。それは、文学作品の主題の幅をこれまでと比べものにならないほど広げたこと、また、実生活と作品に対する文学者の態度を真面目なものにしたこと、最後に、言文一致体の方がはるかにすぐれていることを疑いの余地のないものとし、文体選択の論争に終止符を打ったことがあげられる。言い替えれば、明治文学の自然主義運動は新しい文学の到来のための下地を作ったと言える。基礎工事は終わり、文学の新たなる波は、新しい時代に知的エネルギーを吹き込むことのできる文学者たちから、その原動力を得るのを待つのみとなった。漱石が文学界にデビューを飾ったのはまさにその時だった。漱石は時代の要求が何であるか、そして、それを満たすだけの能力を自分が持っていることを本能的に感じとっていた。

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