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:第一章 はじめに:歴史的遺産
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漱石
封建的伝統の殻をあわただしく脱ぎ捨てた明治の日本は、歴史家がよく引き合いに出すように、ルネッサンス期の英国と似て徹底した浪漫主義に走った。人生と芸術を情熱的に追い求める芸術家たちはだれも、時代を風靡するこの浪漫主義の精神の影響を受けずにいなかった。しかし、このような流れの中にあって、漱石は一見したところでは場違いな例外的存在に見える。というのは、彼の人生ほどロマンからほど遠く、単調で平凡な人生は、ほかの芸術家には見られないと言ってよい程だからだ。人生の最後の十数年間、突然に爆発的な創造力を発揮したその時期を除けば、漱石の人生はほとんど注目に値しない。漱石は「恐るべき子供」でも、「呪われた詩人」でもなかった。少なくとも表面上は、漱石は自由奔放に生きる放浪の文芸家などでは決してなかった。
しかし、彼は正真正銘、明治日本の落とし子だった。ペンネーム漱石の名でよく知られる夏目金之助は、東京に変わる直前の江戸で、明治維新の前年の一八六七年に生まれた。夏目家はかつては裕福だったが漱石誕生のころはあまり羽振りがよくなかった。漱石は五人兄弟の末っ子で、年老いた両親にとっては歓迎されざる子だった。そのため、すぐに乳母に預けられ、まもなく名主の養子となったが、新しい両親の自己中心的な愛情はあまりにあからさまで、漱石は子供ながらにそのことを感じとり、拒否的な態度をとった。里親となった夫婦の仲がこわれたため、この家庭での生活は早々に終わりを告げたが、彼の法的立場はほぼ成人するまで定まらなかった(夏目家に復籍したのは二十一歳のときだった)。のちに漱石は、自分は家庭的な幸福には恵まれない運命にあったと回想している。
このような家庭的な不幸が、人間としての漱石、あるいは文学者としての漱石にどれほどの影響を与えたかは、いまとなっては推測の域を越えない。ただ、成人した段階でその傷が完全に治っていたにせよ、あるいは単に隠されていただけにせよ、いずれにしても確かに言えることが一つある。それは、その傷が漱石の心を弱くすることは決してなかったということだ。それどころか、彼は生に対してあくなき情熱を持っていた。そのことは若い頃の漱石の次のような言葉によく表れている。「生きることが人間の唯一の目的だ。」 さらに重要なことは、彼の誕生が近代日本の歴史上最も重大な意味を持つ転換期と時を同じくし、彼がそのことから最大限の恩恵を受けたという事実だ。時代の変わり目に生まれた漱石は、二百年をかけてパリのそれにも匹敵する洗練の域に達していた江戸文化の、生まれながらの継承者の一人だった。幼少には中国の古典を学んだが、それはのちに漱石の伝統の感覚を養うのに役立った。その伝統とは、江戸の伝統よりはるかに古い中国の伝統だ。その後漱石は英文学を学ぶ道を選んだ。英文学は彼と同世代の若者にとって、新しい世界、新しい秩序、新しいビジョンを約束する確かな道だった。
しかし、このような江戸、中国、英国という三重の伝統に育まれたからといって、必ずしもすぐれた芸術家が生まれるわけではない。このようなバックグラウンドを持った漱石のような人間はむしろ、洗練された趣味を持つ芸術愛好家、あるいはせいぜい言って、育ちのよい有閑学者あたりで終わる可能性が十分にあったと言わねばならない。小説家などはもってのほかだ。知性的で洞察力のすぐれた漱石であったが、若い頃の彼の将来への希望はまったくあいまいで、なかなか定まらなかった。中国語(漢詩)の分野で名をあげようと考えた時期もあったが、それにしても先輩らの忠告でたいした未練もなくあきらめられるほどの夢でしかなかった。またある時期には、友人であり、後に新しい俳句の波を率いることになる正岡子規の影響で、小説よりむしろ俳句の世界に興味を引かれた。さらに、自分の偏屈さや風変わりな趣味、実用主義的な傾向などを考慮して、建築家になるのがよいのではと考えた時期もあった。この考えは、日本人ではセント・ポール寺院のような偉大な建築物は絶対造れないという友人の話で、漱石の頭から消え去った。次に漱石は学部での専攻を英文学に決めた。というより、そう決めさせられた。そして、英文学を学びながら、また一つ夢をあきらめた。その夢とは英語で何か業績をあげようというものだったが、それがほとんど不可能なことであるのは彼自身にもわかっていた。その夢をあきらめ切れない気持ちを、漱石は子規に次のように語った。「おそらく西洋の学問で一番になるよりは、日本語の分野で一番になった方がいいだろう。」いまわれわれにわかっているのは、漱石の青年時代の夢がきちんと定まっていなくて、このようにつねに揺れ動いていたということだけだ。本当に何をしたかったのかはわからない。それでも、漱石にしても生計を立てなければいけなかったわけだから、英文学の道は安全・確実な道ではあった。大学時代の漱石は優秀な学生だった。老子の難解な神秘主義に関する批評(「老子の哲学」)やホイットマンの民主的詩に対する賛辞(「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」)、自然を題材にした英国の詩の伝統の分析(「英国詩人の天地山川に対する観念」)などを書いた。そして一八九三年、英文学士の新たな称号を得て、東京帝国大学を卒業した。優秀な成績と学士号は、英文学教授としての未来を約束しているように思われた。英文学教授と言えば、当時はかなりよい職業とみなされていた。
卒業後漱石は難なく、英語教授として東京高等師範学校に就職した。のちの彼の言葉を借りるなら、「自分が納得いくまで勉強しなくても、簡単に英語の教師になれた」のだ。しかし、学問の分野での輝かしい実績にも関わらず、漱石の心には空しさがつのるばかりだった。まもなく漱石は自分の人生と職業のあいだに越え難いギャップがあることに気付き、漠然としてはいるが確実に存在する、とらえ難い不安に悩まされるようになった。だが、教師が自分に与えられた天職ではないことはわかっていたが、それでは何をしたらよいかというと、漱石にはまだそれがわからなかった。禅の僧侶のところに通いつめたり、中学の教師として松山に旅立ったりしたのは、おそらくこのようなあせりやいらだちからだったろう。松山行きは、それを決意した漱石以外、そのまわりの人々にとっては思いがけない出来事だった。漱石が「生きながら自分を埋めるために」行ったと言う松山で、彼は自分に三つの選択肢のあることを知った。それは学問の道と、放蕩の道、そして結婚だ。俳句に対する興味が依然として強かったこと、また、留学のための資金集めがなかなかできないと彼がつねづねこぼしていたことから考えて、二番目と三番目の道を選択できないことは明らかだった。松山で一年を過ごした後、漱石はさらに西に向かい、今度は熊本の第五高等学校に赴任した。その後四年間、熊本で暮らすあいだ、漱石は自分の内なる渇望を満足させるものを模索し続けた。そして、当時日本中に広まっていた、子規による新しい俳句の波に乗ろうと、俳句の会に入会したりもした。また、英国の作家スターンの "Tristram Shandy" はじめ、いくつかの英文学作品に関する記事を書いたりした。その頃には結婚もしていて、子供もいた。熊本での生活は一見充実しているように見えたが、漱石は満足していなかった。教育者として成功してはいたが、文学の世界に全力を投球できるように、仕事を変えたいとつねに言っていた。自分の心の奥深くに秘められた大切なことを読みとり、それを表現するための自由な時間が欲しかった。そんな生活が続く中、一九〇〇年、大学卒業後七年に渡る浮き草のような生活に終止符が打たれた。皮肉なことではあるが、英語教師としての専門分野の研究のために英国に派遣されることになったのだ。この浮き草生活の時期について漱石自身次のように書いている。
『余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶこと短かきにもかかはらず、文学はかくのごときものなりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もまたかくのごときものなるべし、かくのごときものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、まったくこの幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。在学三年の間はものにならざるラテン語に苦しめられ、ものにならざるドイツ語に窮し、同じくものにならざる仏語さえ、うろ覚えに覚えて、肝心の専門の書はほとんど読む遑(いとま)もなきうちに、すでに文学士と成り上がりたる時は、この光榮ある肩書を頂戴しながら、心中ははなはだ寂寞の感を催ほししたり。』
『春秋は十を連ねてわが前にあり。学ぶに余暇なしとはいはず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏にはなんとなく英文学に欺かれたるがごとき不安の念あり。余はこの不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、又西の方熊本にゆけり。熊本に住する事数年いまだこの不安の念消えぬうちロンドンに来れり。』
(二文とも「文學論」の序)
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