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:第一章 はじめに:歴史的遺産
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ロンドン留学
一九〇〇年から一九〇二年の二年余りに渡る英国滞在は、結果として彼にとっては二度と繰り返したくない厳しい試練の時期となった。その理由は、漱石がすでに三十四歳になっていたこと、すでに一人の子供の父親で、じきに二番目の子が生まれようとしていたこと、その彼が政府からのわずかな奨学金で一人で暮らしていかなければならなかったことなどだ。そんな彼にはとって、ロンドンでの生活はみじめで、簡単に適応できるものではなかった。ほとんど赤貧と言ってよい状況で、異国の殺伐とした首都に送り込まれた漱石は激しいホームシックにかかった。実際、漱石が狂気の淵にあるという報告が本国政府に送られたことすらあった。当時漱石は、後に発病した慢性胃潰瘍とともに死ぬまで彼についてまわることになる神経衰弱の最初の発作に悩まされていた。しかし、彼の神経が冒されたのは、人々が考えたように、厳しい現実に直面し、感受性豊かな心が耐えきれずに絶望状態に陥ったためではなかった。漱石は当時、個人的な危機に直面していた。つまり、彼の苦しみは、純粋な魂が魂自身と取り組もうとしていたことから来る苦しみだった。
この個人的危機は漱石が松山、ついで熊本へと引っ越した頃から兆しはあった。ロンドンでそれが最終的にやって来た時、そのショックは激しかった。英国到着後、漱石はケンブリッジでもオックスフォードでもなく、ロンドンを滞在先に選んだ。それは経済的な理由からだった。スコットランド、アイルランドといった地方も考えたが、英語を学ぶにはそれよりロンドンの方がよいのは明らかだった。漱石はロンドン大学の聴講生の登録をすませたが、まもなくその授業がまったく期待はずれのものであることがわかり、授業に出るのをやめた。その結果、大学で会うのは個別指導教官のクレイグ博士だけとなった。博士はシェイクスピア学者だったが、とくに知的な刺激を与えてくれる人物ではなかった。博士について指導を受けるかたわら、漱石は自分の専門分野についてできるかぎり多くの本を読もうと努めた。とくに、名前は知っているが読んだことのなかった、一般に定評のある本は片端から読んだ。しかし、一年たった後、そんなことをしても、大学卒業時に感じていた英文学に対する疑いは晴れないことがわかった。実際のところ、漱石がやっていたのは、問題と対決することではなく、むしろ、それからどんどん遠ざかることだった。だが、とうとうその問題と正面から対決する込む時が来た。その時、漱石の魂はまさに暗黒の夜を経験することになった。
この時、漱石は文学の新しい定義、つまり、文学に対する東洋と西洋の考え方の違いを埋めることができるような、根本的かつ普遍的な定義を見つけようと決心をした。そうすれば、文学を職業として選んだことが正当化されるはずだった。文学自体に疑いを持っていた漱石は、何事も見逃さず、綿密なチェックを行うつもりだった。自分自身の手で文学に取り組み、その存在理由を明らかにして自分を満足させる必要があったのだ。
ロンドンでの下宿時代の漱石には、毎晩夜更けまで、文学から哲学、宗教に至るまで、あらゆることについて議論を戦わせる相手がいた。漱石はこの頃、その相手から強烈な刺激を受けた。それは漱石に文学を根本から見直させるような一大事件だった。次のような漱石の赤裸々な声をを聞けるのは、この人物との出会いがあったからにほかならない。『近頃は英学者なんてものになるのは馬鹿らしい様な感じがする何か人のため国のために出来そうなものだとボンヤリ考ヘテ居るコンナ人間は外ニ沢山アルダラウ』『学問をやるならコスモポリタンなものに限り・・・君なんかは大に専門の物理学でしっかりやりたまえ』『近頃は文学書は嫌になり候科学上の書物を読みおり候当地にて材料を集め帰朝後一巻の著書を致すつもりなれどおのれの事だからあてにはならない只今本を読んでいるとせっかく自分の考へた事がみんな書いてあったいまいましい』(寺田寅彦への手紙)
十数年後、漱石はこの重大な転換期について次のように書いている。
『私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とはまったく縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をしばらく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。・・・私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼等何者ぞやと気概が出ました。今迄茫然と自失していた私に、この所に立って、この道からこう行かなければならないと指図してくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。・・・その時私の不安はまったく消えました。私は軽快な心をもって陰欝なロンドンを眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今迄霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教へられたことになるのです。』(「私の個人主義」)
漱石はもはや絶望に打ちひしがれてはいなかった。新たな指針を見いだし、己の存在の証しとして文学を探求する決心を固めた漱石の姿がここにある。文学に関する断片的な知識を捨て、漱石は自ら「十年計画」と名づけた非常に野心的な計画に乗り出した。自分の部屋に閉じ込もり、文学に限らず、人類の英知の最も根元的とも言える知識、つまり哲学、心理学、社会学、倫理学、その他さまざまな科学に関する本を手あたり次第に読んだ。それは、人間社会における文学の意味を探るためだった。これに関して、漱石は一九〇二年の舅に宛てた手紙に次のように書いている。
『私の当地着後(去年八九月頃より)より一著述を思い立ち、目下日夜読書とノートをとると自己の考えを少しずつ書くのとを商売にいたし候。同じ書を著わすなら西洋人の糟糠では詰らない人に見せても一通りはずかしからぬものをと存じ励精いたし候。しかし問題がいかにも大問題ゆえ悪くすると流れるかとぞんじ候。よし首尾よく出来上り候とも二年や三年ではとても成就つかまつる間しかとぞんじ候。出来上らぬ今日わが著書などことごとしく吹聴いたし候は、生れぬ赤子に名前をつけて騒ぐようなものに候へども、序故一応申し上げ候。まづ小生の考えにては「世界をいかに観るべきやといふ論より始め、それより人生をいかに解釈すべきやの問題に移り、それより人生の意義目的及びその活力の変化を論じ、次に開化のいかなるものやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖し、その連合して発展する方向よりして、文芸の開化におよぼす影響およびその何物なるかを論ず」るつもりに候。そのような大きなことゆえ、哲学にも歴史にも政治にも心理にも生物学にも進化論にも関係いたす候ゆえ、自分ながらその大層なるにあきれ候こともあり候えども、思い立ち候ことゆえ行く所まで行くつもりに候。そのような決心をいたし候とただほしきは時と金にござ候。日本へ帰りて語学教師などに追いつかわれて候ては、思索の暇も読書の暇もなきことかと心配いたし候。時々は金を十万円拾って図書館を立て、その中で著書をする夢を見るなど愚にもつまぬことにござ候。』
さらにまた「文学論」の序の中で、漱石はロンドン時代を回想して次のように書いている。『いっさいの文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学のいかなるものなるかを知らんとするは血をもって血を洗うがごとき手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学はいかなる必要あって、この世に生まれ、発達し、退廃するかを極めんと誓へり。』つまり、文学の興亡に関する自分独自の考えを極めることを誓った。そして、その考えこそ、漱石の職業の選択を正当化するはずだった。『蝿頭の細字』で書き連ねたノートが五、六インチの高さに達した時、漱石は帰国した。それは一九〇三年、一月のことだった。
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