『漱石研究』 目次に戻る
:第二章 いらだちの日々(1903-1907年)
:第一節
:
「英文学形式論」
「英文学形式論」と銘打った最初の講義は、前述の文学の本質と、日本の文学についての話で始まる。アリストテレスからトルストイ、アーノルド、バックルに至るまで、さまざまな文学者が唱える文学に関する定義について論じた後、漱石は一息いれて、次のように述べている。『ただ私はこの講義においては、われわれ日本人が西洋文学を解釈するにあたり、いかなる経路(プロセス)により、いかなる根拠(グラウンド)より進むがよろしいか、かくしてわれわれ日本人はいかなる程度まで西洋文学を理解することができ、いかなる程度がその理解の範囲外であるかを、一個の夏目という者を西洋文学について普通の習得ある日本人の代表者と決めて、例を英国の文学中にとり、吟味してみたいと思うのである。』文学者による文学の定義は、その人の文学に対する態度によって決まる。従って、その態度の如何によっては、ある側面を強調しすぎるといったこともでてくる。そのようなやり方では正確な定義は生まれない。漱石はこのことを肝に命じ、区別をすることはむずかしいと断った上で、文学を形式と内容という二つの部分に分けている。それから、講義の進め方について次のように述べている。『第一に形式について述べる。これを述べるにあたり、まず形式に限界(リミット)を付する必要がある。限界を付した形式について一々説明する。それより内容に移って、これにも限界を定め、内容はいかなる要素から成立するか、いかなる種類(バラィティー)を有っているか、そして内容はなにに憑拠(デペンド)するものかを調べる。こうして、私のいわゆる文学の形式、内容のいかなるものかが分かったうえ、その両者の関係を論じ、進んで内容が時によって分化(ディフェレンシェート)するかを究めたい。さらに進んで文学が人間に及ぼす効果(エフェクト)はいかん、その効果はいかなる規則によって支配せられるものかを見、最後に芸術家が製作する時の快楽と、読者の快楽とを分析するつもりである。』(訳者注*括弧内のカタカナは原文では漢字のルビの形式で書かれている)まず形式について論じるにあたり、漱石は普通よく使われるジャンルによる分類を採用せず、いきなり「趣味」の問題を取り上げている。『文学の形式は読者に快楽を与えるように配列した言葉である』と言ったブルック同様、漱石も文学作品の形式は、哲学上のむずかしい意味ではなく、単に「好きか嫌いか」といった意味の「趣味」に訴えるべきものだと論じている。これは十八世紀、十九世紀に重要視された「趣味(テースト)」という言葉とは異なっている。漱石は『しからばいかなるものが趣味に訴えるかというに、これは主観的に人によって異なり、客観的にものによって異なる』と述べ、その後に、人によって異なる部分ではなく、客観的な部分を論じると断っている。次に、彼が『形式の客観的条件』と呼ぶところのものの分類が始まる。文学作品からの引用や図式を使って展開される漱石の理論の最終目標は、局地的なものから普遍的なものを、偶発的なものから一般的なものをふりわけることだった。漱石はこのような明確な区別をつけることができるようになってはじめて、さまざまな形式を持つ西洋文学に対し、もっと鋭い鑑識眼を持って接することができると指摘している。このように、漱石はこの一連の講義によって、文学作品が読者の趣味に訴えるかどうかを判断する際のある客観的基準を設けようと試みた。
第一節 に戻る