『漱石研究』 目次に戻る
:第二章 いらだちの日々(1903-1907年)
:第一節
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「文学論」
「英文学形式論」は講義の第二部たる「文学論」の序章でもあった。前者は文学の形式について論じ、後者は内容について論じている。「文学論」はまた、今や中止せざるを得なくなった、漱石の「十年計画」の記念碑たるものだったが、漱石はのちにこれを『奇形児の残骸』(「私の個人主義」)と呼んでいる。この講義録を読むと、漱石の特質がよくわかる。つまり、客観性を重んじる分析的態度、持論の解説に必要な材料の完璧なまでの処理、あらゆる時代の権威者たちからの適切なる数多くの引用とそれに対する遠慮のない反論、文学的・非文学的見地からの鋭い観察に基づく、独創性あふれる洞察、西洋と東洋の文学の興味深い比較などがそれだが、中でもとくに注目されるのは、英文学に限らず、すべての文学そのものを支配する基本原理を突き止めようとする熱意だ。英文学は漱石にとって、文学の一つの側面にすぎなかった。今あげたような漱石の持つ特質が、「文学論」を、日本の文学者によって書かれた論文中最も重要な意味を持つものにしている。
いかなる文学であれ、その内容はF+fという基本的な公式に帰する。Fは『焦点的印象または観念』を表し、fは『これに付着する情緒』を意味する。つまり、すべての文学の内容は観念的要素たるFと情緒的要素たるfの結合の結果である。Fは継続する意識の焦点、すなわち頂点を示し、したがって、個人の意識の中に瞬間的に現れる印象・観念だけでなく、その人の人生のある一時期、さらには、社会の進化の過程のある一時期に現れる印象観念をも含む。つまり、Fは心理学的基礎から出発し、社会的要因にまで発展する。このような論理の展開に沿って、漱石の講義は五つの大きな部分に分けられている。つまり、文学的内容の分類、文学的内容の数量的変化、文学的内容の特質、文学的内容の相互関係、集合的Fの五編だ。
第一編で漱石は文学的内容を分類し、それによって文学の領域を明らかにしようとした。その領域は一般的に文学の領域と考えられている範囲、つまり、文学を純粋に知的な喜びと考える人間、その反対に道徳的観点から文学そのものの存在を否定する人間、どちらの種類の人間が考えている文学の範囲をも越える、非常に広範なものだ。人間が経験するすべての印象および観念は、三つに大別することができる。『(一)Fありてfなき場合すなわち知的要素を存し情的要素を欠くもの、たとえば吾人が有する三角形の観念のごとく、それに伴ふ情緒さらにあることなきもの。(二)Fに伴なうてfを生ずる場合、たとえば、花、星等の観念におけるがごときもの。(三)fのみ存在して、それに相応すべきFを認めえざる場合、・・・すなわちなんらの理由なくして感ずる恐怖など、みなこれに属すべきものなり。・・・以上三種のうち、文学的内容たりうべきは(二)にして、すなわち(F+f)の形式を具ふるものとす。』文学に表現される人間の基本的感覚要素は、触覚、温度、味覚、嗅覚、聴覚、視覚の六つだ。漱石はリボットの分類に従って、文学の内容となりうる心理的・感情的要素を二つに分けている。一つは恐怖、怒り、同情、自己観念、性的感情、愛情などの比較的単純な感情、もう一つは嫉妬、忠誠心、超自然的感覚、一般化された真実などの複雑な感情だ。そのあとに入念な例証が続くが、これは漱石が、感情こそが文学の試金石であると考えているためだ。言い替えるなら、文学は感情に始まり感情に終わる。人間のいかなる経験でも、それがfを引き起こすものでありさえすれば、文学になりうる。漱石はそう論じた後、文学の内容となりうるものすべて、つまりF+fという基本公式にあてはまるもののすべてが四つに分類されると言っている。つまり、『(一)感覚F、(二)人事F、(三)超自然F、(四)知識F』の四つだ。(一)はおもに自然界に関するもの、(二)は善悪喜怒哀楽を写した人間のドラマ、(三)は超自然あるいは宗教的な世界、(四)は人間のかかえる問題についての哲学的・精神的観念に関するものだ。この四つのFのうち文学の内容として最も効果的でないものは(四)の知識Fだ。なぜなら、文学においては、内容がより具体的であればあるほど、読者の感情を揺さぶることは少ないからだ。
しかし、ここで漱石は分類のための分類だけにとどまってはいない。彼はその後に多くの例をひき、このようにして図式化された文学が、そこから知的喜びのみを得ようとする人や、文学にはいかなる道徳的要素もなしとして、文学そのものを否定する人たちが考えている範囲よりも、ずっと広範なものであるという事実を証明しようとしている。それと同時に、漱石はまた、西洋文学のいくつかの特性についても論じている。つまり、性的本能、すなわち愛情に対する情熱的な興味や、超自然F、とくに神の重要性といったものだ。そして、第一編の最後では、前述のような分類を基礎とした上で、『人生は文学にあらず。少なくとも人生は浪漫(ローマン)派の文学にあらず』と警告を発している。なぜなら、文学は情緒に始まり情緒に終わるのに対して、人生は必ずしも情緒を中心とするものではなく、もっと幅のあるものでなければならないからだ。
第二編「文学的内容の数量的変化」は、第一編で分類した四種の(F+f)がどのような原則のもとで変化(増減)するかを論ずるために、まず、その一構成要素であるFの変化の考察から始まる。Fが認識力の発達、認識の対象範囲の拡大とともに、絶え間なく増加するものであることは間違いない。そして、そのことは一個人のみならず、集団にもあてはまる。Fの増加はfの増加を引き起こす。このfの増加は転置、拡大、固執の三つの法則に支配されている。次に、漱石はfそのものの性格を取り上げ、かなり長い時間をかけて、直接体験と間接体験という二つの種類のfについて論じている。直接体験から生ずるfが自然な感情であり、間接体験から生ずるfが芸術的な感情と呼ばれるものだが、この二つのfはその強さ、性質において異なる。漱石は作家が作品を書くことによって直接体験を間接体験へ変化させる方法(ときとして不愉快な直接体験をいかに取り扱うか、その『表出の方法』によって作者の誠実さが分かる)について詳しく語ると同時に、読者の側の反応の仕方についても論じている。つまり、直接体験においては全く興味がなかったり、できれば避けたいと思うような体験でも、それを間接体験として読むと、興味津々で、夢中になって読んでしまうといった反応の仕方だ。このことは悲劇的f、つまり悲劇によって引き起こされる芸術的感情についても言える。漱石は、このfこそ、間接体験から生まれる感情のうちで最高のものとしている。悲劇の効果は、凝縮された間接経験を創出する作家の技量に大きくかかっているが、それと同時に、読者の側がどれほど自己観念を排除できるかにかかっている。悲劇は意図的にある方向、すなわちクライマックスへと進展する、役者の偽装の苦しみと考えることができる。この種の苦痛は、刺激を好む人間、冒険心を持った人間、漱石の言うところの『贅沢な涙』をこぼすことのできる人間の心を引きつける。そして、まさしくそこに悲劇の存在理由がある。悲劇こそ人間の生活の基本的必要を満たすものなのだ。
当然ながら、次に議論は『文芸上の真』の問題に発展していく。文芸上の真理(つまり文学的F)の本質は、科学的真理(科学的F)と比較してみるとよくわかる。一般に、科学は時間の枠内においてのみ存在する。なぜなら、科学のおもな機能は、「いかにして('how')」、つまり物事が進展していく過程を描写するところにあるのに対し、文学はそればかりでなく、時間を超越した人生の断面をも扱う。また、科学はつねに分析的で、その対象物を実体のない部分に解剖する傾向にあるが、一方、文学は合成的で、実体のある活動をともなう人生を代弁することにおこなりなく、有機的な全体の一部として対象物をとらえる。文学上の真理と科学上の真理との間には、しばしば衝突が起こる。そのとき、作家が文学上の真理のために科学的真理を犠牲にするのは、当然のこととして許されているし、事実多くの作家がそうする。そのとき作家はさまざまな方法を使うが、その一部をあげると、誇大法、省略法、選択法、組み合わせなどだ。漱石は科学上の真理を犠牲にして文学上の真理を採用する上で最も重要なことは、『観念の連想』だと主張する。彼によれば、よく使われる伝統的な修辞学はこの場合とくに有効とは言えない。この「連想」の方法には六つの種類がある。『投出語法(たとえば擬人法)、自己と隔離せる連想、滑稽的連想(ユーモア、だじゃれ、機知)、調和法(たとえば東洋文学における自然との類似の利用)、対置法(緩勢法、強勢法、不対法)、写実法(濃厚なものと、平凡なもの)、間隔論(たとえば歴史的現在の使用、同情の利用)』の六つだ。
この一連の講義のはじめに、漱石は、Fとは意識の焦点を意味するもので、それは個人のみならず、集団にもあてはまると言っている。そして、ここまでは文学の内容そのものに関する基本的問題を取り上げてきた。最後の第五編では、この集合的Fについて論じられている。その論は集合的Fの類別、推移、変遷と進められ、それに伴って、文学の興亡を左右する一般原則、文学上の学派の違い、各種文芸運動の運命などが明らかにされる。漱石ははじめに、「集合的Fは個人的Fの意味を拡大したものにすぎないので、個人的Fにあてはまる理論は特別な場合をのぞいて集合的Fにもあてはまる。そのため、個人的Fで論じたことをそのまま集合的にあてはめる場合は、とくにことわることはしない」といった意味の注意をした後、集合的Fを、内容ではなく形式をもとに三つに分類している。『模擬的意識(模倣そのもの、伝統)、能才的意識(時代の先頭に立つ)、天才的意識(それ自体の核を持ち、それ自体の意識の波を持つ)』の三つだ。模擬的意識と天才的意識との相違は、Fを意識するために必要な時間の遅速にあり、能才的意識と天才的意識の違いは、能才的Fはつねに社会で成功を納めるのに対し、天才的Fが成功を納めることはまれで、成功よりむしろ迫害を受ける。漱石は次に、集合的意識の変化を支配する一般原則の一つとして『暗示の法則』をあげ、そのさまざまな応用の仕方を論ずる。最後に、補遺として、文学に影響を及ぼす暗示の種類をいくつかあげている(経済、科学、政治、道徳など)。これらの要因すべてがさまざまに作用して文学作品の生命を決定するが、現実の生活ではこれらの要素は純粋ではなく、もっと複雑だ。漱石はここでふたたび、文学作品の本質的価値がその作品の生命を支配するのは、現実とは異なる理想の世界においてのみだと指摘する。
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