『漱石研究』 目次に戻る
:第二章 いらだちの日々(1903-1907年)
:第二節
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講義に対する不満
これらの三つの一連の講義は週に三時間、四年間に渡って、帝国大学で次々と行われた。そのほかに、漱石は読解のための特別クラスを開くことがあった。また同じ時期、増える一方の家計をまかなうために、第一高等学校と明治大学でも教鞭をとっていた。教師としての拘束時間だけでも、合計すると週に三十時間を超えていた。さらに、このような拘束時間以外に、漱石は「マクベスにおける幽霊について」などといった学術論文を書く時間を見つけていた。こうした活躍を見ただけでも、彼が明治の日本における西洋文学研究者として最も才能あふれる人物の一人であったことを裏付けるに十分だが、漱石自身は自分の生活にも、また自分自身にも満足していなかった。そして、この不満が、たえまなく襲ってくる神経衰弱の発作に悩まされながらも、漱石を文学研究以外の幅広い活動に駆り立てた。その活動は、水彩画の制作、「自転車日記」などの小品やロンドンの思い出を綴った作品などの著作、英語による詩作、短長さまざまな日本語による詩作、あるいは翻訳など、じつに多岐に渡っている。漱石が学術論文以外のものを書き続けたのは、暇があったからではなく、書きたかいという欲求のため、あるいは書かなければならなかったためだ。実際は、このようなものを書くことは彼の不満をやわらげる助けとはならず、かえって教職から彼の気持ちを遠ざけ、創作活動へと駆り立てる役目を果たした。一九〇四年十二月、漱石の創作エネルギーがついに爆発した。とどまることを知らない彼の筆の先から、「吾輩は猫である」、七つの短編を集めた「漾虚集」、別の短編集「鶉篭」の三作が、次々と、時には同時に生み出されていった。そして、そのあいだも、週三十時間という教職をこなしていた。これはほとんど神業に近い。漱石自身、「文学論」の前書きに記しているように、「狂気」の瞬間がなければ成し得ない、つまり、狂気のおかげでこそできたことだった。
『英国人は余を目して神経衰弱といへり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりといへるよし。賢明なる人々の言ふところには偽りなかるべし。ただ不敏にして、これらの人々に対して感謝の意を表するあたはざるを遺憾とするのみ。
帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のようしなり。親戚のものすら、これを是認するに似たり。親戚のものすら、これを是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。ただ神経衰弱にして狂人なるがため、「猫」を草し「漾虚集」を出し、また「鶉篭」を公にするを得たりと思へば、余はこの神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず。
余が身辺の状況にして変化せざるかぎりは、余の神経衰弱と狂気とは命のあらんほど永続すべし。永続する以上はいくたの「猫」と、いくたの「漾虚集」と、いくたの「鶉篭」を出版するの希望を有するがために、余は長しへにこの神経衰弱と狂気の余を見棄てざるを祈念す。
ただこの神経衰弱と狂気とはいやおうなく余を駆って創作の方面に向はしむるがゆえに、向後この「文学論」のごとき学理的閑文字を弄するの余裕を与えざるに至るやも計りがたし。』
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