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:第二章 いらだちの日々(1903-1907年)
:第三節
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「坊っちゃん」
「趣味の遺伝」は一九〇六年一月の「帝国文学」に発表された。そのとき、「吾輩は猫である」はあとわずか三章を残すのみとなっていた。漱石は同時期に、「坊っちゃん」「草枕」「二百十日」の三つの小説を完成している。この三つの作品は後に「鶉篭」という短編集にまとめられた。これらは、大学での四つの講義の内容にそって、前に発表した短編集と「吾輩は猫である」との特徴を組み合わせたものだったと言える。つまり、「坊っちゃん」は「吾輩は猫である」の喜劇的精神を受け継いでおり、「草枕」は「吾輩は猫である」の苦沙弥の詩的なものの見方、あるいは「一夜」に見られる詩的世界を完成させたものであり、「二百十日」は「吾輩は猫である」に暗黙のうちに込められた社会的な意識を、ほとんど暴力的と言える状態にまで圧縮したものである。このように、漱石は依然として、超然の文学(「草枕」)と拘束の文学(「二百十日」)との両極をあわせ持っていたのだ。
「坊っちゃん」は「吾輩は猫である」とともに、漱石の作品中最も人気のある作品で、作品集の中に最も頻繁に取り入れられている。そのため、多くの読者が、この小説の主人公と作者たる漱石を同一視する傾向にある。このような傾向は危険ではあるが、いくらかの真理があることも否定できない。しかし、その理由は、よく言われるようにこの小説が、漱石が松山の高校で教師をしていた頃の体験に基づいて書かれているからでも、また、第一人称で書かれているためでもない。その理由はむしろ、「生きながら自身を埋めに」松山に出発した頃の漱石ではなく、この小説を書いた頃の漱石のある一面が、主人公に投影されてところにある。つまり、ロンドンからの帰途、世間から逃げ出すのではなく、世間と戦おうと決心した漱石の姿だ。
「坊っちゃん」の全編を流れる雰囲気、物語の展開のペース、方向性は、『親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている』という書き出しからはっきりと読み取れる。つまりこの物語は、地方の高校に赴任した江戸っ子の主人公の、波乱に満ちた毎日に焦点が置かれ、学生や同僚教師、上司の教師たちのけちな根性と真っ向からぶつかり、主人公が敗北者として(しかし、自ら望んだ敗北者として意気揚々と)去っていくところにクライマックスがある。「坊っちゃん」はいわば、「吾輩は猫である」の延長線上にある。あるいは、「吾輩は猫である」をメロドラマ化したものと言える。「坊っちゃん」では、猫の仮面をはずした漱石が東京生まれの、純真な新任教師に姿を変える。ここでは、「吾輩は猫である」に見られた、金持ちの俗物と防衛的なインテリとのコントラストは、因襲的な多数派と非因襲的な少数派、いわゆる社会の指導者層と反抗分子との直接的な衝突の形をとる。そして、善人と悪人との区別のはっきりしている漱石の世界では、登場人物が代表する人間の種類は、与えられたニックネームからそれとなくわかるようになっている。たとえば、狸とあだなをつけられた校長は、世間づれした古狸、教頭の赤シャツは女のようなねちねちした性格で、自分の得になるように策を弄しては悦にいっている。美術教師ののだいこはおべっかつかいで、あっちにべたべたこっちにべたべた、都合のよいほうにくっつく。これらを一方として、もう一方に主人公の唯一の見方の山嵐がいる。この「善」と「悪」とが教師の一人のうらなりをめぐって衝突する。うらなりは気はいいのだが弱々しくて、婚約者を赤シャツにとられ、赤シャツの陰謀にはまってしまう。しかし、登場人物の中で最も典型的なのは言うまでもなく、坊っちゃん(この言葉は英語に翻訳不能。「かわいらしいご主人様」といったような意味)その人だ。彼は荒れ地のダイヤモンドとも言うべき人物で、この上なく正義を貴んでいるのだが、世間をうまく渡るだけの才能がない。物語はこの人物が第一人称で語る形式をとっているので、わき道にそれることなく、まっすぐに大詰めに向かう。そのため、深い思慮や、繊細な感情のひだを求めることのない読者にとっては、格好のおもしろい読み物となっている。
小説の最後には、偽善者でありながら上品にとりすましていて、生き残るために因襲しがみつかずにいられない、世の中によくあるタイプの人間の本性が暴露される。この点を見る限りでは、「坊っちゃん」は風刺文学と言えるが、それ以上のものではない。主人公はぼんやりと自分の立場を認識するだけだ。彼の行動を支配しているのは、社会的な意識ではなく個人的性格だ。この小説が喜劇性の中にぴりっとした苦みを持っているのはこのためだ。「吾輩は猫である」の主人公の猫はいわば、まじめなことを冗談に変える役をするが、「坊っちゃん」の主人公はそれとは反対に、まったく喜劇のセンスを持っていない。彼は徹頭徹尾まじめた。ただし、その基準はつねに自分の好みにある。そういった主人公の生真面目さにこそ、この小説の喜劇性があり、それがこの小説を単なる退屈なメロドラマに終わらせないでいる。もし、これが単なるメロドラマになっていたら、主人公は最後に意気揚々と敗北者として去ることなどできなかっただろう。
先に指摘したように、軽率にこの小説の主人公を作者と同一視し、「坊っちゃん」の文学的作品としての価値を軽視し、漱石の倫理的な愚直さを批判することは、重大な間違いだ。というのは、漱石は決して「坊っちゃん」の主人公と同一視することはできないからだ。せいぜい言えたとしても、「坊っちゃん」は(当時の)漱石のある一面を表しているという程度だ。この物語をおもしろく新鮮にしている要素はたくさんあるが、最も重要なのは漱石の喜劇的なタッチだ。それはわれわれが世間並の人間になるために、自ら進んでかあるいはやむなく捨てた、自然な無邪気さに対する郷愁を呼び起こす。つまり、この物語のテーマは、自然と人工との衝突にあると言わねばならない。ただし、この衝突が潜在的に持っている悲劇性に真っ向から取り組むには、漱石はまだ準備ができていなかった。
漱石にとっては感情こそが文学の基礎だった。したがって、感情の一種である道徳的感傷も文学において重要な意味を持つ。この疑う余地のない事実を無視し、芸術のための芸術に献身する者は、許せざるべき罪を犯してきた。一方、彼らの反対側に位置する者たちは、道徳的な感傷がいかに重要であっても、それは文学の一部にすぎないという事実を見過ごしてきた。このような理論に基づき、漱石は「文学論」において、善悪に関する倫理的な考えを意識的に一時棚上げすることは、ある種の文学を鑑賞するために必要不可欠であると言っている。その文学とは、われわれの道徳的感情を超越した文学だ。つまり、人間を越えた文学、李白や杜甫、クーパー、ラヴァーなどの詩のような作品だ。自然を題材とした詩にはこのことがあてはまものが多い。とくに東洋の文学はこの伝統を強く持っており、「草枕」はこの範疇に入る。すでに「一夜」において、漱石は思い切ってこの方向に足を踏み入れていて、「草枕」では、苦沙弥らの役立たずのインテリの審美的な時間の過ごし方や、「倫敦塔」や「幻影の盾」、「薤露行」などの詩的精神にさらに近づこうとしている。それはとりもなおさず、自然が持っている、つねに変わらない「新鮮さ」を漱石が追求しようとしたにほかならない。
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