『漱石研究』 目次に戻る :第三章 決定の瞬間(1907年-1908年) :

時の守銭奴

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 週に三十時間教壇に立ち、それと同時に三つの講義の準備をするだけでも、一人の人間の仕事としては多すぎるが、漱石はそれに加えて、「吾輩は猫である」を執筆し、そのほか十以上の短編を書いた。さらに、詩や評論、翻訳もやった上、二十以上の雑誌のインタビューに答えている。名声が文学界にとどまらず外の世界に広がっていくにつれ、漱石はいまや自分の熱狂的な崇拝者になっているかつての教え子や現在の教え子に取り囲まれるようになった。その崇拝者の中には寺田虎彦、森田草平、鈴木三重吉、野上豊一郎、小宮豊隆、みつねとよじょう、坂本せっちょうらがいた。その後、阿部能成、阿部次郎らもそのメンバーに加わった。彼らはみな、芸術と思想を真剣に愛する学生たちだった。弟子や崇拝者、友人たちからなるこのサークルは急速にその輪を広げ、一九〇六年の終わりには毎週木曜に彼らのために集まりが開かれるようになった。それ以後、文学サロンとも呼ぶべきこの木曜の集会は、現代文学界に大きな影響を与えるようになり、自然主義の作家が中心となっている別のグループ、りゅうどう会としばしば対立した。多くの人に囲まれていたこの時期、漱石はまた、繰り返し襲う神経衰弱の発作と、万人衆知の家庭内の不和とを切り抜けていかなければならなかった。
 もし漱石が、熊本に住んだまま、文学生活を静かに送り、気が向くままに読んだり話したり書いたりすることができればよいと、ぼんやりと願っていただけだとしたら、文学界の流れの中心としてのこの新しい役割に満足したことだろう。しかし、漱石は今では昔の漱石ではなかった。気ままで気楽な芸術愛好家になろうという彼の望みは、今ではもっと厳しく激しい文学への情熱へと変わっていた。一九〇四年十二月、「吾輩は猫である」の最初の部分を発表し、「倫敦塔」を書いているとき、漱石は冗談半分に次のように書いている。「これからは、軽い食事をとり、深呼吸の方法を習得して、偉大なる文学者になろうと思う。」このような野心を心に秘めている人間にとって、時間は非常に貴重だったに違いない。後に「道草」の中で、漱石は主人公のことを「つねに時間に駆り立てられている男」と描写し、「時の守銭奴」と呼んでいる。この小説は当時の漱石自身の姿を正確に表していると一般に考えられている。時はいかなる場合も残忍な主人であり、自分の奴隷にいかなる猶予も許さない。時は漱石にもこのことを要求してきた。漱石は教えることか書くこと、そのいずれかを選ばなくてはならなことを知った。なぜなら、時はつねに自らの奴隷に完全なる献身を求めるからだ。教えることから得られる満足感がどんどん減っていく一方、書くことが漱石の興味をそそり、もはや単なる趣味の域を越えるようになっていた。
 おそらく、漱石のこのジレンマを最も雄弁に語っているのは、この時期に彼が書いた手紙だろう。一九〇五年四月、漱石はこう書いている。「この頃大学の講義を準備をしているが、ただいやでたまらない。もうすっかり大学をやめてしまえたらと思う。講座の準備をするくらいなら、まだ『猫』の原稿を書いている方がましだ。」五月には、自分の崇拝者の一人に感謝する喜びについてこう語っている。「この種の喜びは宝くじに当たった喜びより、偉大なる学者と呼ばれる喜びより、また博士号や教授の地位を与えられる喜びよりはるかに大きい。」六月の書簡にはこうある。「大学と高校でフルタイム、明治大学でパートタイムで教える一方で、私はフルタイムで物を書こうと奮闘している。何と馬鹿なことをしているのだろう。こんなことは一年が三六五日から一万日にならない限り無理だ。よく考えた結果、私はもし新聞社が一つのコラムに十円払ってくれるというなら、教師の仕事をやめてしまってもよいと決心しかけたくらいだ。」八月には:「仕事は山のようにあるのに、時間がない。二人に分裂でもしない限り、あるいは一日が四十八時間にでもならない限り、とても不可能だ。」九月には:「いちばんやっかいなのは、学校が始まるのが早すぎることだ。おそらく私の心理的構造が学校には向いていないのだろう。」同じ月の数日後には:「よくばりなんかとはほど遠い。もし満足のいく作品を二つ書くことができれば、私はこの上もなくしあわせになるだろう。だが、そうするためには牛肉や卵、そういったものを食べなくてはならない。だから、私は今何が何だかわからなくなっている。心の悩みのために自分を失いつつある。これ以上悪い事態があろうか。(こんな言い方は喜劇的に聞こえるだろうか。)ともかく、教えることはやめなければいけない。私の心が本当に欲しているのは書くことだ。もし書くことだけに専心できるなら、どんなにしあわせだろう。なぜなら、書くことのみが、私の天に対する義務、他人および自分に対する義務を遂行する唯一の方法だからだ。」同月さらに:「欲求不満と心配にさいなまれているというのに、私はまだ何もやり遂げていない。自分のことがつくづくいやになっている。教職を辞することは作家になることを意味しているというのは、ただの希望的観測かもしれない。」
 この欲求不満は翌年にはさらに強まっていた。漱石の昔からのユーモアのセンスが薄れ、真面目な調子がそれにとって代わった。自分の実力に対する自信が大きくなればなるほど、現代文学に対する思い入れが深まっていった。それも、外からの観察者としてではなく、そこが勝利の場となるかあるいは自分の墓場となるかわからないまま、翌日の戦いの場となる戦場をじっと調べる戦士として、文学界の様子をじっとうかがっていた。翌一月にはこう書いている。「われわれは批判の目を養わなければならない。作者の美点を傷つけないだけの公平な目を。他人の作品について言うなら、できればただそれを楽しみたい。その本を読みたいと思う気持ちがまずなければだめだ。だが、読んでいくうちに、私に本当に感銘を与えるものがあまりないことに気づく。むしろ、外国の作品の方が私を感銘させるものが多い。私が外国の文学を無条件に崇拝しているからそうなるというわけではない。それはまったく筋違いだ。」当時漱石は泉鏡花のゆがんだ才能を嘆き、藤村の「破戒」に深く感動を覚えていた。漱石の「破戒」に対する思い入れは深く、明治文学の傑作と呼んで推賞することを惜しまなかった。そして、藤村に匹敵するような偉大な作品を自分はまだ書いていないと認めている。十月にはこう書いている。「明治文学は始まったばかりだ。いままでのところ、まだ誕生したばかりだ。大学を出た若者たちがそれを偉大なものに育てていくだろう。前途は洋々としている。幸運にもこのようなすばらしい時代居合わせた私は、次代の若者への道を開くため、そして、来るべき数多くの天才たちのために舞台を用意するため、死ぬまで頑張るつもりだ。われわれがぐずぐずしていたら、この勢いが弱まってしまうかも知れない。われわれは急がなければいけない。全力をあげて戦わなければならない。人々に文学が内閣の連中がやっていることよりもずっと崇高で、有用なものであることを教えてやるのだ。あの役立たずの金持ちたちを、大臣にではなく作家に向けて頭を垂れさせるのだ。」同じ月に漱石は落胆している弟子に対して次のように書いている。「百年もたてば、百人の博士、一千人の教授が土に帰る。私の希望は私の作品を百世代後まで残すことだ。」

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