『漱石研究』 目次に戻る :第三章 決定の瞬間(1907年-1908年) :

京都大学からの申し出

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 ちょうどこの頃、漱石は古い友人から京都帝国大学で働かないかと誘われた。その返事の二通の手紙の中で、漱石はそのとき自分の心にあったことを次のように明かしている。「もし自分が昔のままの自分だったら、東京から松山へ、そして熊本へと逃げた自分だったら、英文学の教授として京都へ喜んで行っただろう。」しかし、彼はもはや昔の漱石ではなかった。彼は子供だった。ほんの三つか四つの。海外から戻り、新たな決意とともに生まれ変わった子供だった。彼が何か価値のあることを成し遂げるのは、大人になってからのことだった。だから、十年前の過ちを繰り返すことはしたくなかった。たとえ死んでも東京に残る決意だったのだ。
 「いままでのところ、私は自分の真価を試す機会を持たなかった。また、自分自信を信じることもしなかった。私はいつも友人たちの親切、先輩の慈悲、仲間の善意に頼ってきた。しかし、今後は私はそう言ったものには頼らないことにした。妻にも、子供にも、親戚たちにも。倒れるまで一人で進まなければいけないのだ。そうでなければ、私は人生の真の意味を見いだすことも、人生へ挑戦することも、あるいは自分が死んでいるのか生きているのかという確信すらこともなく死んで行くことになるだろう。私にとって人生は神からの授かりものだ。だから、もし人生の意味を自分で見いだすことができなかったなら、とても残念に思うだろう。」
 漱石は同じ調子で弟子へ次のように書き送っている。
 「整然とした中、美の中に生きること、すなわち詩的に生きることーー人生の価値のうちどのくらいが詩的生活に占められているのか、私にははっきりとはわからないが、実際には非常に少ない部分に違いない。実際の人間は「草枕」の主人公のようであってはならない。あの主人公のように生きることもかまわないかもしれないが、この現代に生き、なすべきことを完全に果たすためには、イプセンの主人公のように積極的に思い切って人生に立ち向かわなくてはならない。この点から言うと、美しいだけの文学作品はただの戯言にすぎない。古代の学者がそれを嘲ったのは正しかった。また、俳句の精神とはこの戯言の世界をそぞろ歩く喜びを意味するにすぎない。この小さな世界をぶらついている限りは、偉大なる世界は一寸たりとも前進しない。さらに、軽んずることのできない恐るべき敵が四方に存在している。文学を自分の人生とみなす者は、美だけでは満足することはできない。そういう人間は明治維新の尊皇派の侍のように、確固たる決意を持って困難に立ち向かわなければならない。実際のところ、芸術家になるためには人間はすべてを乗り越えなければならない。神経衰弱だろうが、狂気だろうが、あるいは刑務所暮らしだろうが・・・私に関して言えば、私は俳句を鑑賞するのが好きだが、それと同時に、維新の侍と同じ様な情熱を持って、自分の命を賭けて文学を追求したいと思っている。」
 英雄的行為を必要とし、英雄を生み出すのは戦争だけではない。文学もまた、独自の英雄的行為を必要とし、独自の英雄を生み出す。なぜなら、漱石に言わせると文学は平和の戦いだからだ。日露戦争の後の日本文学の状況をたずねられた漱石は、日本は「戦争には勝ったが平和は失った」と言った。この言葉は、明治の文学がいまだ西洋文学からの独立を宣言していないことを意味していた。しかし漱石はまた、武器によるこの勝利が、ヨーロッパのルネサンスにも匹敵する創造性に満ちた新しい時代をもたらすかもしれないという期待を持っていた。この勝利が、日本の文学界が果敢にも独立を宣言する日を予告するように思えたのだ。しかし、日本の文学が独立宣言に署名をすることができるようになるまでには、まだ少し時間が必要だった。漱石はこうした時代の波に乗った文学者の一人だった。そして彼自身、その変化の瞬間の持つ重要な意味を次第に強く認識するようになった。明治の日本の自由人として、漱石は軍事的な勝利よりも偉大なもの、より本当のもの、そして、より永続的なもの、すなわち文化的な勝利、完全なる勝利を求めていた。実際のところ、それに先立つこと二年、漱石は自身の内部で独自の日露戦争を戦ってきた。そして今、真の勝利をもたらす英雄的行為を行うことができるかどうか、自分を試すときが来た。

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