『漱石研究』 目次に戻る :第三章 決定の瞬間(1907年-1908年) :

決心

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 しかしそれでも、漱石はすぐに新しい仕事に飛びつくことはできなかった。もはや、むこうみずに何でもやる年齢ではなかったし、養わなければならない家族も大勢いた。妻と三人の子供、それに四人目がじきに生まれることなっていたのだ。それに、仕事がなかったわけでもなく、とくに新しい仕事を探さなくてはいけないという状態でもなかった。また、この同じ頃、漱石は自分が望めば東京大学の英文学の教師になることもできる状態にあった。いよいよ決心を固めなければならなくなった漱石は、さらに慎重にあらゆる可能性を考えた。教職を捨てることは、未知の未来のために、比較的安定した生活と、ある程度の社会的地位を捨てることを意味していた。こうして朝日との交渉は翌月にまでずれこんだ。漱石はあらゆる可能性に関して朝日からはっきりとした返事を要求した。たとえば、漱石は朝日が抱えることになるリスクについても持ち出している。ある手紙に、漱石はこう書いた。「私の書くものは現代の新聞には合わないということを知っておいていただきたい。もちろん、十年ぐらいはそれでもいけるかもしれないが、十年後には漱石はいまほど人気がないかもしれない。そのことを考慮しているのか。」朝日が仕事の話を持ち込んだのは、新鋭の作家としての漱石の人気に目をつけたためだけでなく、漱石の才能、可能性、そしてなによりも誠実な人柄を買ってのことではあったが、当然ながらこの朝日の側のリスクはまた、漱石の側のリスクでもあった。三月の半ば、両者は契約の主な事項についてやっと合意に達した。その内容は次の通り。(1)月給二百円。定期的な付加給付別。(2)正当な理由なく解雇しない。(3)漱石の文学的著作はすべて朝日のみに掲載する。ただし、その量、種類、時期については漱石に一任。(4)非文学的著作、学術的著作、雑文に関しては漱石の自由。(5)漱石の著作に関する経営陣からの干渉は絶対に禁止。たとえその著作が流行からはずれているとしても。(6)朝日で発表された全作品の著作権は漱石が保持。
 文学とジャーナリズムの間の関係はおうおうにして悲惨で、いずれか一方の期待を大きく裏切るものだ。だから、今では、両者の間にこのような関係が成り立つことなど想像もできない。しかし、漱石の決心の中に譲歩の気持ちがあると見たり、その譲歩の気持ちを、新しい社会の暴君たるジャーナリズムへの文学の条件付き降伏と解釈したり、あるいは芸術や知性を切り売りした一種の売春行為だと片づけるのはいずれも短絡的な考えだ。実際は、この朝日と漱石のケースは文学とジャーナリズムという、いわば身分の違う者同士の結婚が成功したまれな例だった。両者はいくつかの点に関して単に合意を見ただけでなく、自らの原則を曲げたり、誠実さを犠牲にすることなく、両者ともに実際にその合意に沿って行動した。こうして、漱石と朝日は文学とジャーナリズムの間にはまれにしか生まれない、実り多い協力関係を打ち立てた。少なくとも明治の日本ではこのようなことはまれだった。さらに、この関係は漱石が人気作家として名を成し、最後には国民的作家となっていく足がかりとなった。
 しかし、こういったことは後代のわれわれの目から見るからこそ言えることで、当時の人々、一般の文学評論家のみならず漱石の崇拝者たちにとっても、この漱石の決断は大きなショックだった。明治の日本の他の多くの新聞同様、朝日も、この啓蒙の時代にあって最も効果的な媒体の一つであり、知的階級を読者としてはいたが、学会を捨て、「俗世界」のジャーナリズムに身を落とすという漱石の決断は、まだ当時の人々には受け入れがたかった。依然として古い考えに捕らわれていた当時の人々の目には、日本の学会の最高峰の東京帝国大学から朝日のような私企業へ転身するなどということは、高尚たるべき職業意識からして考えられないことだった。しかし、ショックの原因はこれだけではなかった。当時の人々の目には漱石の決断が学者から小説家への堕落、実に狂人の沙汰と映った。これは他の作家たちのたどった道を逆行するものだ。創作活動を断念して学界に戻った坪内逍遥や二葉亭四迷の例は、結局のところ文学は人間の一生を賭ける職業ではないことを身を持って証明したようなものだった。漱石が朝日にはじめて掲載した声明文、「入社の辞」は明らかに、こうした当時の風潮に言及したものだった。その中で漱石は持ち前の率直さで、学界と新聞とのあいだにいかなる相違もないと断言している。事実、漱石にとっては新聞に書くことの方が、『文芸上の述作を生命とする余にとってこれほどありがたいことはない』という気持ちだった。漱石はこう言っている。『近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。』そのあと、こう結論が書かれている。『人生意気に関ずとかなんとか言う。変り物の余を変り物に適するような境遇に置いてくれた朝日新聞のために、変り物としてできうる限りを尽すは余の嬉しき義務である。』
 漱石の決断の意味は大いに評価されてしかるべきだ。なぜなら、彼の決断は、伝説的な作家漱石の誕生と同時に、近代日本における職業しての作家の成立をも意味していたからだ。力を持ちつつあった官僚世界から自分を切り放すことによって、漱石は新たに手に入れた自由を行使する権利を高らかに宣言した。その自由とは、無所属の作家としての自身の運命を切り開いていく自由だった。朝日からの申し出を受け入れるとすぐに、漱石は大学へ辞表を提出し、二週間に渡って京都を旅行した。そして四月、朝日との取り決めが正式なものとなった。同月、最初の小説の構想を練る一方で、東京芸術院文学協会の会合で「文芸の哲学的基礎」と題された講演を行った。連載に先駆けて、文学に対する自分の考えをはっきり表明しておくことは妥当であろうと考えた漱石は、この講演の内容に修正、加筆をして、後に朝日に掲載した。この講演はいわば「文学論」の補遺のようなものだったが、注目に値する点もいくつかある。漱石はまず、個別化と統合に関する進化論の概念に基づき、意識の継続に対する人間の最も内なる願望が、時間の経過とともに四つの種類の理想を生み出すと指摘した。その理想とは、美しいもの、真なるもの、善なるもの、卓越したるものの四つだ。この四つの理想はそれぞれ漱石の主張する四つの精神的領域に対応する。漱石の考えによると、理想的文学者はこれらの四つの理想をすべて作品の中に実現しなければならないが、それはあくまで理論上のことであり、実際には一つか二つの理想に重点をおかざるを得ない。たとえば自然主義の文学がよい例だ。自然主義は一つの主義として、文学界にその正当な地位を得てはいるが、その主張する「真実なるもの」は全体の一部にすぎない。つまり、真実こそが唯一無二のものであると強調するあまり、文学としての幅を狭めるという間違いを彼らは犯している。この悲しむべき現状の緩和策として、漱石は作者の性格を掘り下げることと、技法を鍛錬する必要のあることを指摘している。結局のところ文学は、本来的に芸術の一種であり、真の文学というものは作者によって、とりわけ作者の性格によって芸術性が極められたときにはじめて成立するものである。そうなってはじめて、作家は現代社会における自分の権利を行使することができ、また、その作品が後世の人々に影響を与えることが可能ととなるのだ。この講演は全体として文学擁護の内容だった。また、最初の仕事を前にして漱石がどんな心境でいるかを伝えるものでもあった。

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