『漱石研究』 目次に戻る :第三章 決定の瞬間(1907年-1908年) :

「坑夫」

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 「虞美人草」を読んだ後に、その次の作品の「坑夫」を読むと、まったく違う世界に入ったような気にさせられる。「坑夫」の主人公はまったく主人公らしくなく、登場人物の数も限られている。そして、物語は現実的で淡々としたスタイルで語られる。登場人物のあいだに目立った親交もなければ、はっきりとした筋もない。従って、興味をそそられる人間ドラマもない。「坑夫」は小説に必要と思われる要因のすべてを欠いている。一種の「反小説」と呼んでも言い過ぎではないだろう。その後に発表された漱石の作品群と比較しても、共通したテーマはまったくなく、例外的な作品と言える。
 漱石自身の言葉によると、この小説はある若者からやむなく買った話の種をもとにかかれた。『ある日私のところに一人の若い男がヒョックリやってきて、自分の身上にこういう材料があるが小説に書いてくださらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのですという。』(「『坑夫』の作意と自然派伝奇派の交渉」より)他人の経験に基づいたこのような小説を漱石が書く気になった理由はなんだったのだろうか。いくつか推論できるが、その一つは、朝日新聞の大阪支社(この連載は朝日新聞の東京版と大阪版に掲載されることになっていた)から突然に、正月からの連載の執筆依頼がきたとき、漱石が小説の題材となりそうなものをほか持っていなかったという考えだ。もう一つの推論は漱石が、そのあまりの人為性に嫌気のさしていた「虞美人草」とはまったく違うものを書きたいと思っていたからという考えだ。あるいは他にもいろいろ理由として考えられることがあるだろう。しかし、ここで重要なのは、漱石は小説家であり、リポーターではなかったのだから、他にまったく違った題材を選ぶこともできたはずなのに、なぜわざわざ他人の経験を題材にしようと考えたのかということだ。実際のところ、漱石が真に意図していたのは何だったのだろうか。
 物語としてはまったくおもしろみに欠けるこの小説は、一人称で語られ、話し手の若い頃の思い出話なのだが、読者がそのことを知るのは物語の最後の最後になってからだ。それに、物語のはじめの頃にも、主人公に関する必要な情報が十分与えられない。たとえば、彼がかなりいい家の出であり、きちんとした教育も受けていること、自分の好きな娘と親の決めた娘とどちらをとるか決めかね、そういった自分に嫌気がさして東京から出奔したことなどだ。物語は全編を通じて一人称で語られる。読者は何の予備知識も与えられずに、いきなりすでに行動を始めているこの若者にひき会わされる。くたびれ果てた若者はまるで何者かに追われるように、街道を歩き続ける。心の中は、自分の人生における可能性を考えて止まない。そんな心境の若者の心を、綿入れを着た一人の男がとらえる。甘言を弄して近づいてきたその男は、本当はペテン師で、何も知らない青年たちをだまして炭坑で働かせるのを仕事にしていた。若者はその男のうんくさい指示のままに夜汽車に乗り、ある場所に着くと、ほかのだまされた若者たちと共に暗い山道を歩いていく。若者たちはあやしげな小屋で一夜を過ごした後、炭坑の町に着く。坑夫監督は主人公に同情的で、家へ送り返してやろうと言うが、若者はとどまり、数々の苦難を乗り越えていく。とても人間とは思えないような様相の坑夫の一団が、半分死にかかった仲間を引きずって、別の仲間の葬式に参列する光景も見た。また、炭坑小屋での最初の夜は、はいずり回る虫のために何度も目を覚まさせられた。二日目の朝、若者は迷路のような坑道に連れていかれた。そこは迷路と言うよりむしろ、どろどろ、つるつるした「地獄」と言った方があたっているような場所だった。坑道のあちこちで、若者は坑夫たちからあざけりの声を浴びせられ、また、そこここに開けられた底無しの縦穴に肝を冷やしたり、ダイナマイトの音に脅かされたりした。一人の気のよい坑夫は、自分と同じ過ちは繰り返すなと言って、手遅れにならないうちに外の世界に戻るように忠告した。物語の終わりは突然やってくる。若者は医者から鉱山での仕事は無理と診断され、事務の仕事に回される。そしてそこで五カ月働いたあと、東京に戻るのだ。
 「坑夫」は漱石があらかじめ書き記した長いあらすじに忠実に書かれている。おそらく、漱石の出会った若者の実体験にも忠実だろうと思われる。それどころか、文体そのものもまるで事実を記載しているといったスタイルで、あまりに気どりがないので、この小説をルポルタージュとして片づけてしまいたい気にさえさせられる。しかし、さらに深く読んでいくと、すぐれたルポルタージュを書くのに必要な方法をすべて避けていることがわかる。たとえば、特定の事物をいちいち一般化して表現している(鉱山の実名もあげるのを避けている)点だ。しかも、もとのあらすじでは、ルポルタージュに必要不可欠なこれらの詳細はすべて書かれているのだ。また、漱石はなぜ、一人称で語り続けたのだろう? これらのことを考え合わせると、漱石がルポルタージュを書こうとしていたのではなく、フィクションにとって重要ないくつかの要素を実験していたのではないかと思われる。事実、この小説が発表された直後のインタビューで、漱石自身そう語っている。そのインタビューの中で、漱石はこの物語の語り手の、坑夫には似合わない知性を備えた若者を、自分の創作の産物であるとし、このような語りかけのスタイルをとったことの利点を説明している。一人称の語り口は、状況や経験の臨場感を維持するのに役立つが、思い出を語るという形式を漱石がとったことには、そのほかに、いくつかの特別な理由がある。まず、第一に、語り手が自分自身の経験に対して公平な見方ができるということがあげられる。つまり、善悪を同じ比重を持ってみられる。第二には、時間という距離をおいたために、漱石は扇情主義の鋭い刃を取り外すことができた。第三に、一般化の容易なこのような方法をとることで、当時の日本の小説ではあまり見られなかったが、漱石にとっては非常に大切であったあること、つまり、人間の行動の背後にある動機の詳細な分析を行うことが可能になった。漱石の説明によると、彼は、ある出来事の経過を追ったり、その底にある原因と結果の繰り返しをたどっていくことにはあまり興味がなく、むしろ、その出来事を形作るさまざまな要因について語ることに興味の中心があった。だから、「物事の即時性をつかみ取る」ための最良の方法として、この小説では全編に渡って現在形を使ったのだ。漱石の得意の長々とした語り口は、ここでは人間の行為の裏にある相互的な要因を明らかにするために使われている。漱石は、知的な好奇心に欠ける読者には、自分の作品は単に、「何の目的もなく一つの点を堂々めぐりしている」ようにしか見えないだろうと率直に認めている。さらに漱石は次のような点を強調している。つまり、このようなアプローチは、もちろん、彼自身の創作上の原則によるものではなく、むしろ、この作品に独特な必要性からとられた方法であると言っている。
 このような漱石の話から、「坑夫」が意図的に選択された創作技法の実験の結果であることが明らかになる。この作品はルポルタージュとして書かれたものでは決してないし、そのジャンルに入れられるべきものでもない。これは芸術作品たることを意図して書かれたもので、芸術としてのフィクションとノンフィクションとの境界を探ることを目指している。この作品を通して、漱石が発見したことは数多い。それらの発見は小説のあちこちにちりばめられ、主人公の口を借りて語られる。その言葉の中からいくつかの点が際だって見えてくる。まず、現実の世界での人間の営みの多くは、小説の中にきちんと納められることを拒絶するという点だ。それを試みた小説は小説として失敗に終わる。小説はフィクションとしては「おもしろい」かも知れないが、実際の人生はそれより「謎めいて」いる。この言葉は、「坑夫」が小説より実際の人生に近いということを示唆している。次に、フィクションと実生活とのあいだにあるこの矛盾は、二つの世界を生きる主人公の中にはっきりと現れる。つまり、実生活では人格というものは無形で、首尾一貫していないが、フィクションの中では人物そのものが作り物なのだ。漱石の言葉を借りるなら、「いかなる小説家も真実を書き記すことはできない。もし、それができたとしたら、それはもはや小説ではない。」第三に、実際の人生においては、選択の余地が与えられる。しかし、フィクションは常にこうしたチャンスを取り除く方向に展開するから、結果として主人公には選択の余地が残されない。第四に、人間の行動は、原因と結果を基にした機械的な原則に従って展開するフィクション中の人間の行動よりずっと複雑だ。なぜなら、人生には未知の要素がたくさんあって、それが人生を謎めいものにしているからだ。「坑夫」の主人公はいくつかの心理的現象にふれることによって、つまり、生に対する自分の希望と死に対する願望(主人公はこの二つの感情にほとんど同時に襲われる)とについて語ることによって、人生の不可思議さを指摘しようとしている。このようにして、この物語の語り手は、人間の本来的な特性の相矛盾する二つの両極を翻弄される。坑夫たちの動物的な本性に確信を得たかと思うと、次の瞬間には、人間を類別しようとする彼の見方をひっくり返すような出来事が起こる。その一つの例が、主人公を暗い坑道から外の世界へ連れ出す役目をする仲間の坑夫だ。このことによって、主人公は「地獄に仏」という古い諺に含まれた真実を知る。
 地獄に落ちてはいるが仏の心を持ったこの仲間の坑夫に従いながらも、主人公はこう尋ねずにはいられない。地獄に逃げ場を見いだしたこの男と、彼を迫害し続ける社会と、どちらが悪いのだろう? この疑問はまた、極悪の条件に生きる坑夫全般にも通じるものだ。だが、漱石はそれとは逆の方向に進んで行こうとはしない。人生の選択の時を与えられた主人公にそちらの方向をたどらせることは容易であったにもかかわらずだ。「地獄に仏」の仲間の坑夫はこう言う。「さあ、ここが地獄の入り口だ。おまえには中に入る勇気はあるか。」この小説は、若い主人公が、人間の本性の織りなす迷路に自ら足を踏み入れる、試練の物語にもなり得た。しかし、実際は、その要素を持っているだけに留まっている。漱石はそれとは逆に、あらゆる点で「反」小説的なものを書こうとしているように思われる。作者自らもりあげたサスペンス感をまったく無視して、物語をどちらの方向にも展開させず、最後は実に「反」クライマックス的な場面で打ち切っている。この小説の最後のくだりはこうだ。『自分が坑夫についての経験はこれだけである。そしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。』
 漱石のこの実験的な「反」小説が、自然主義に反対する立場を声高に唱えているように感じられるとしたら、それは当時の小説が、次の時代に大きく実を結ぶ新しい心理学と人類学からの侵略を受ける前に、自然主義の伝統の中にどっぷりとつかっていたという歴史的事実によるものだ。「坑夫」は自然主義的なフィクションに対する漱石の挑戦だった。当時の自然主義は人間の人生の大きさ、豊かさ、複雑さに目をつぶったまま、因果という機械的な概念にのみ基づいたものだった。そういった自然主義のばか正直さを実際に示して見せた漱石は正しかった。「坑夫」は漱石による反自然主義の試みだった。先にふれたインタビューの後半、および、一九〇八年に発表された漱石のエッセイ「創作家の態度」において、漱石は同問題を理論的に分析している。この二つの文章を読むと、漱石が自分独自の地位を固めるために、自然主義とそれに付随する事柄を相手にいかに真剣に戦い、自分の満足のいくようにそれらを消化していったかがわかる。
 漱石は自然主義に関して大きな混乱があると考えていた。とくに日本の文学に関してはこのことは疑いようのない事実だとしている。なぜなら、日本の場合は、ロマンチシズムの対極にある自然主義が、つねに歴史的観点からとらえられていたからだ。そして、このような歴史主義は、さまざまな誤った推論、教義的な分類、歴史的事実と芸術的真理とのあいだの混乱などに必ずおちいる。このような混乱状態から日本の文学界を救うためには、文学作品の価値は歴史上の主義の分類などとは無関係なものだという、もっとも基本的な事実を人々が認識しなければならないと漱石は主張した。歴史の中で貼られたレッテルをはがし、心理学的な立場から見ると、自然主義もロマン主義も単に人間の行動の二つの極、つまり客観と主観とに対応しているにすぎないことがわかる。この二つの極の真ん中にあるのが古典主義で、人間は客観と主観の出会うこの中心点を通りながら、常に両極のあいだを揺れ動いている。自然主義は真理の追求を声高に唱える一方、自由意志を否定する。なぜなら、論理的な必要からして、自然主義は因果という単純な法則を採用しているからだ。ロマン主義が文学の中に自らの地位を主張できる、そしてまた主張すべきである理由はまさにここにある。つまりロマン主義は自然主義とは対象的に人間の意志を重んじるという特性を持っているからだ。漱石は、文学史上のレッテルやジャンル分け、反自然主義などの反何々主義、そして、歴史主義そのものに反対してはいたが、自然主義の持つ長所、とくにその中の客観主義は否定していなかった。というのも、客観主義こそ、伝統的な日本文学を活性化させるのに必要不可欠な特質だったからだ。それは、深みを必要とする性格描写においてだけでなく、葛藤に満ちた複雑な人間の行動を明らかにする心理学的分析においても必要なことだった。文学の歴史はロマン主義と自然主義とを交互に繰り返していったわけではなく、両者の弁証法的相互作用の中を流れていったわけだから、客観主義の味付けによって文学を活性化することは十分可能なことだ。そのような活性化を経てはじめて、日本の文学は両者の合成物としての新理想主義を産み、独立した地位を確立していくのだ。
 このような観点から見ると、「坑夫」における漱石の意図はじつにはっきりしてくる。この作品の持つ意味についても同様だ。小説らしい小説「虞美人草」を書いた後、漱石はそれと反対の試み、つまりある種の「反」小説を試みざるをえなかったのだ。これらの二つの対象的な小説によって代表される二極を包括することにより漱石は、近代日本文学においてネオロマンチシズム、あるいは新理想主義と呼ばれる彼の将来の文学の基礎を見つけることができた。漱石は芸術と実生活との境、フィクションと事実、自然主義とロマン主義との境を探ったわけだが、そのために漱石は「坑夫」の中で、地獄への堕落という別のテーマを展開させることができなかった。しかし、それに近いことを、漱石は次の作品「夢十夜」でやりとげる。

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